火の玉通信

家庭菜園や管釣りなど、日々のことを徒然なるままに

20数年前に社報に書いた随筆「悲しくてやりきれない」 一挙公開!

「悲しくてやりきれない」
部屋の中を見回してみる。散らかっている。布団は万年床、ティッシュペーパーの山、無造作に置かれた週刊誌。足の踏み場もないほど散漫している。数ヵ月に一度、自嘲の念にかられ、掃除してみたところで、一週間もたてば元の木阿弥である。
このことは、もとをただせば、私が“だらしない”“不精な”“面倒臭がり”な性格が奇妙にミックスされ、起こり得た「人災」なのである。
次にキッチンを眺めてみる。このスペースは、私の部屋とは思えないほど整然としている。う〜ん、結構オレもマメな人間だな、なんて感慨にふけろうと思った瞬間、無駄だ!(この3文字は筆で書くと、尚一層の臨場感が味わえる)もう一回無駄だ!何せ私は一年365日、うるう年は366日料理をしたことがないのだ。そりゃきれいで当り前、汚なきゃおかしい。さて、今日は豚肉のしょうが焼でも作ろうかな、なんて思っても、私の部屋には、コンロがない。傘はあるけどコンロはない。これはもう致命的欠陥である。家で食事しないのだから、洗うべき物が発生するワケがない。よって、キッチンは私にとって無駄なモノと判定された。
ふと、その隣を見ると、冷蔵庫がある。恐る恐るその重たい扉を開けると、そこには虚無的な空間が広がっていた。入っているのはウーロン茶と、レイアウトを気にして意味もなく置いてある薬があるだけ。しかし、冷蔵庫は、自らに課せられた使命にひとかけらの疑問も抱かずに、空間だけを冷やしている。まるで、部員が8人しかいない野球部が、甲子園目指して猛練習している姿にも似て、あまりに悲劇的である。電源を切れば、悲劇が喜劇に変容し、私も電気代が浮くし、冷蔵庫も無駄な苦労をしないで、全てがハッピーエンドに終わるのだが、せめて冷蔵庫ぐらいには電気を入れていないと文化的な生活とは見放されちゃうな、といった発想から、冷蔵庫に対する葛藤は、あっさりとその幕を閉じるのであった。
それから、再び部屋に戻る。暗い!(この2文字は白抜きのゴチック体が渋い)まあとにかく暗い。ここだけの話にしておくが、私の部屋には電灯がない。これは痛い。夜はまだ、テレビの灯りによって、その寂しさはまぎれるが、例えば土曜日の午後4時頃の寂しさは、一種の哀愁さえ感じてしまう。そんな高価なものでもないから、パチスロですったと思って買ってしまえばいいものの、冒頭の三種の性格のハーモニーが、私を行動に移らせてくれない。ただ、もう慣れてしまえばどうってことないコトなのだ。寂しさを紛らすためのビデオだってあるし・・・。
必要と不必要が交差する部屋で、怠惰な生活をすることは、ある種の恍惚感さえ感じてしまう。今、私は「自堕落」という言葉が最も好きだ。